メッセージ: 2009年4月アーカイブ

世代交代

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誰かの誕生日の日や長期の休日に、時々、我が家では8mmフィルムを上映することがあります。
それはホームビデオと一緒で、昔の家族の映像が映っているのですが...。

GWということで久々に上映することになった8mmフィルム。
今やその中に映る父と母は自分の年齢と近くなっていて、現在の父と母はフィルムに映る祖父と祖母の年齢と近くなっていて。
成長期が終って毎日顔を合わせていると、慣れてしまってそうそう変化にも気づかないのですが、さすがに何十年という違いの差を見せられると、こうして確実に時がたっているのだと、世代が変わっていくのだと知らされるようで不思議な感覚がします。
小さい頃にはものすごく絶対的な大人だと思っていた父と母が自分とそんなに変わらない年齢だったと思うと、自分の幼さと比較して当時の彼らは一体どんなことを考えていたんだろうとしみじみ思案してしまいます。
そして意味のわからない歌を歌い続けるスクリーンの中の自分達兄妹をみるにつけ、こんなに手のかかる子供育てられなーい!と思ったり。
(なぜか若干2歳にして人生をテーマにした歌を自作し歌っています。何かあったんでしょうか。)

上映が終って、父が、ぽつりと言いました。DVDにでも焼き直してもらおうか、と。
さすがにいつまでも映写機が動いてるわけでもないだろうし、と。
8mmフィルムはフィルム含め撮影機、映写機は既に製造販売をしているところがあるかどうかもあやしいぐらいの古い機械です。
壊れても修理する部品が手に入らない状況にすぐさまなるでしょう。
上映時のフィルムの回るカラカラいう音や、埃が焦げるようなちょっと甘い匂いが結構好きだったりするのですが、その機械を使う人がそう言うと、そうなのか、交代の時期なのか、と寂しく感じてしまいます。

古いものと新しいものの世代交代。
それはいつの時代もあるものですが、今と昔、そっくり変えてしまうのではなく、良い部分を受け継いでその間をつなげるっていうのは、思ったより大事で、さらに何を良い部分とするかで幾通りもの方向が生まれるなあ、などと実感したりしたのでした。
画像の美しさや音の美しさは技術革新と共により洗練されて継承されていくけれど、あの埃っぽい甘い匂いやカラカラ五月蝿い音というような付加される匂いや騒音的な音が意識的に継承されることはあまり代表的な例をみないと思うのですが、人がいいなあ、と思うことっていうのは、案外そうした付加的で感覚的なもののことも多いのではないか、と思ったり。
そういう付加的なものを繋げて残していくにはどういった方法がいいのかと考えたり。

京都の祇園のあたりでは若い世代の職人さんが伝統と現代をうまく融合させた、着物生地を使った和アロハやキャスケット、現代風にアレンジした手ぬぐいや蝦蟇口財布、文具などの店舗が増えてとても活気づいています。
東京の谷中あたりでも、若い職人さんのお店と昔ながらのお店が入り交じって、お客も若い人年をとった人も混じり合い、商店街も街も活気があります。
こうした街はつながる未来を予感させてとてもいいな、と街を歩いていて気持ちよくなります。

伝統だけでなく、切り捨てるだけでもなく、先に繋げていく、発展させていくっていうのはやりようも様々で、だからこそ面白いこともできるし難しくもある。
webの世界ではモノの世界よりも倍速で進んでいく感がありますが、だからこそ何を残して何を捨てていくのかの選択はより大事だったりするんじゃないのだろうかと思ったり。
naeさんの"年を取るということ"を読んでちょっと思うところもあり。
つらつらとそんなことを考えたGWです。
4月から、また大学通いが始まりました。
久しぶりに国分寺駅からバスに乗ったら、とてもお年寄りが多い。
東京の郊外にある実家に行ったときも、それを感じました。

都内には、案外いろいろな年齢や立場の人が入り交じっていて、お年寄りもいれば
小さな子供も、若い人も、中年の人もいますが、ちょうど高度成長期に開けた、郊外の
住宅地に暮らす人は、最近はお年寄り中心になっているのかもしれません。

この季節には珍しく、紅葉した葉のついた小枝の束を抱えた、おそらく80歳を
優に越えたおじいさんがバスに乗って来て、私の前の座席に座りました。
少し後ろのシルバーシートには、もう少し若いおばあさんが既に座っていました。

おじいさんが、誰に話すともなく、「今日は暑くなったねえ」と大きな声で言うと
おばあさんが「ほんとね。いい気候だから気持ちがいいわね。」と返しました。
この自然なやりとりを聞いて、最初、二人が知り合いなのかと思いましたが、
どうもそうではなさそうです。

おばあさん「きれいな枝。とてもすてきね。」
おじいさん「毎年もらうんだよ。○○にやろうと思ってさ」

○○の部分は、私には聞き取れませんでしたが、すかさずおばあさん、

「お仏壇にあげるのね。そのお仏壇は奥さんのお仏壇なの?」
「そうだよ。○○なのにさ。去年17回忌をやったんだ。」

また聞き取れない部分があったのに、おばあさんは

「そうなの。だんなさんより9つも若いのに先に逝ってしまったのね。」

と、見事におじいさんの聞き取りにくいおしゃべりを聞き取って、的確なコメントを
返しています。

「でも、だんなさん、身ぎれいにしていらっしゃるわね。」
「今日は暑いから、夏みたいな格好で出て来ちゃったよ。」

確かに良く見ると、おじいさんは清潔なポロシャツとズボンを身につけ、夏物の麻の
帽子を被っています。奥さんに先立たれてから、17年間一人で暮らし、毎日、仏壇に
季節の植物を飾っているのでしょうか。

「もう最近は、ただ生きているだけだから。」
と言うおじいさんに、おばあさんは
「みんなそうですよ。」と優しく言い、そこで会話は途切れました。

その後、おばあさんの連れがバスに乗り込んで来たようで、二度と二人は会話を交わす
ことなく、途中の停留所でおじいさんはバスを降りて行きました。

見知らぬおじいさんとおばあさんの、ほんの2〜3分の会話。

シンプルだけど、言葉の端々に重みがあり、おじいさんとおばあさんの人間性を感じる
ことができるような会話でした。

きちんと生きて来た人たち。
長い人生を重ねて来た人にしかできないやりとり。

私も、あのくらいの年齢になったとき、そんな会話が自然にできるようになるので
しょうか。

おじいさんとおばあさんの会話は、初夏のような空気とともに、静かな余韻を残し、
未来の自分に対しても、襟を正す気持ちにさせてくれました。




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