2009年5月アーカイブ

最近、気になって仕方がないのが、芸能人の結婚相手などによく使う「一般の方」という言い方です。

一般、っていうと、何となく「上から目線」の印象を受けるのは、私だけでしょうか?
有名人ではない人、芸能界で活動している人ではない人、という意味で「一般」なのかもしれませんが、相手の個性を無視しているみたいで、失礼なのではないか、と思ってしまいます。

有名人でなくても、社会人として活動している人には、それぞれ職業やプロフィールというものがあるのだから、具体的な職業でなくても「会社員」「公務員」くらいのことは言ってほしいものだと思うのですが、それも言えないのは、どうして?
まあ、相手は芸能人でないんだから、騒がないでそっとしておいてね、詮索しないでね、という意図も感じられるのですけれどね。

「一般の方」という言い方は、ほかにどんなところで使われているのかと思い、ネットで検索してみたところ、圧倒的に多いのが、大学のサイトでした。
在学生の方へ、卒業生の方へ、教育関係者及び一般の方へ とか、
本学で学びたい方へ、在学生の方へ、卒業生の方へ、企業・一般の方へ とか、
生徒や教職員以外の人に向けた言い方として、多くの大学で使われていました。

「一般の方」というのは、関係者以外の人や、何かの分類に入らない場合の項目として使われているのですね。つまり、「その他」と同じようなものです。
ある意味、便利な言い方なのかもしれません。

でも、この場合の「一般」と芸能人の言う「一般」は少しニュアンスが違いますね。大学の場合は、不特定多数を対象としているわけですから。

そしてもう一つ、耳障りなのが「婚活=コンカツ」という言い方。

最近、やたらとよく言われています。部活や就活から来た言い方であることは、容易に想像できますが、なんだか節操のない表現に感じます。
お見合いというと、ひそかに水面下で行うものという印象を受けますが、婚活は、堂々と、ぶっちゃけで行う感じ。誤解を恐れずに言うと、結婚というものが浅薄に、均質化されて受け止められているように思えてしまいます。

実態はどうなのか、よくわかりませんが、またここでも、日本の「ハレ」と「ケ」の世界観が失われたのか、という印象を受けます。
非日常的な「ハレ」の世界は、日常的な「ケ」の世界とは精神面でも形式面でも違うものであるべきで、この境界線がどんどん無くなっていくことに、漠然とした危機感をおぼえます。

「婚活」というのは、単なる言い方に過ぎないのですが、言葉が文化をつくっていく面もあることを考えると、単に言葉の問題だけでは済まないように思うのです。

こんなことが気になるようになったのも、年のせいなのかな。

そういえば、語学を専門としている父は、私が、英語などの文字が書いてあるTシャツを着ていると、いちいち「それはどういう意味だ」とか「文法がおかしい」などとつっこんできて
面倒臭く思ったものですが、今となっては、納得できる気もしたりして。

最近、どうやら、そんな父に似て来てしまったのかもしれません。

従姉のお通夜に行ってきました。
昨年の秋に入院したときは、すでに手のつけられない状態になっていたのでしょう。
癌は8ヶ月の間に、ふくよかで元気に満ちあふれていた従姉の身体をみるみるうちに冒し、
最期は別人のように痩せてしまい、意識も戻ることのないまま、旅立ってしまったと
いうことです。

いつも笑顔で、おしゃべりの大好きなひとでした。病気になるなんて、想像できないくらい
元気なひとでした。いつもまわりの人に気をつかい、その場を明るくしてくれる、ひまわりのようなひとでした。

昨日、従姉が亡くなった知らせを聞いてから、どんよりと重い気分でした。

それなのに、お通夜に参列した私の心には、なぜか強い悲しみの気持ちが沸いてこなかった
のです。私は不思議な気持ちに包まれながら、賛美歌を聴いていました。

なぜなんだろう。
どうしてなんだろう。

従姉の写真を眺めても、献花をしていても、なんだか、自分の感情が遠いところにあるよう
な感じなのです。

そうだ。

実感がわかないってこのことなんだ。

私は自分の不思議な気持ちに気づきました。

病院にお見舞いに行くことのできなかった私には、昨年元気な時に会ったままの彼女の姿が、脳裏に焼きついていて、私にとっての彼女は、そういう元気な彼女でしかないのです。
闘病中に何もできなかった私には、どうしても、彼女の命が終わったことを実感することができなかったのです。

人類の長い歴史の中の、ほんの一瞬、同じ時代に生きる。
たくさんある国の中で、たまたま日本に生まれ、同じ時間を共有する。
...人と人との関係は、たいへんな偶然が重なって成り立っています。

今、すぐそばにいる人も、1年会っていない人も、5年会っていない人も、20年、30年会っていない人も、みんなそれぞれ、その人の位置を私の中に持っている。
名前を忘れてしまった人でさえ、やはりその人の位置は、私の中にある。
そういう人と人とのさまざまな関係の中に、今の私がいる。

「死」は、人生の終わりではあるかもしれないけれど、決して人と人との関係の終わり
ではありません。
私の心のなかで、確実に彼女は今までと同じような位置にいて、おそらく、この先も、それは変わらないでしょう。

彼女が教えてくれたいろいろなことを、私はしっかり覚えておきます。
それが彼女に対する、私なりの追悼なのではないか。
まだあまり整理ができていないけれど、今はそんなふうに考えています。

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